寒の戻りに、ほっと一息つく。 留学生から東京のおみやげにもらった和菓子に舌鼓を打つ。今まで母国の人形や飾り物をもらったことはあるが、日本のおみやげをもらったのは初めてだ。その代わりに早速資料が送られてきた。添付ファイルを開けようとするができない。しばらく考えて、文字コードを変換したために開けられなかったのだと気づいた。その学生はいつも違う文字コードでメールを送ってくる。ついこちらの使用する文字コードに表示を切り替えたため、不都合がおきた。文字コードも認知形態も、相互理解を促すためにはどちらかに合わせるのがよいのだろう。教える側としては速やかに相手の文字コードに切り替え、あるいは認知形態を知り対応することが必要だ。それだけで記号の羅列にすぎなかったものが、意味のある文章に変換される。PCを使用する際、数種類の文字コードを選択できる。ところが対人関係においては、初めから同一の認知・言語・理解力を設定してしまう。機械に対して寛容であり、人間に対して許容範囲が狭いのは何故だろう。教育現場においてそのような寛容さは、まるで子どもに害であるかのような誤解がまかり通る。PCには取り扱いマニュアルがあり、その通りに使用すべく向き合う。しかし子どもには、特に自閉症の子どもには、障碍特性の理解という取り扱いマニュアルの存在に拒否感をいだく教師も多い。PCを愛情や情熱で使いこなせないのと同様に、自閉症児に不適切な激励を使用しないでほしいと思う。